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古河の歴史


「こが」は、古く奈良時代に編さんされた、『万葉集』巻十四の東歌に「許我」として歌われています。
歌の内容から、渡し場であったようすがうかがわれ、渡良瀬川や利根川にのぞんだ古代の集落は、低地の沼や川を交通路として、国府や各地を結ぶ古道の要所として発展してきたことをうかがわせています。

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渡良瀬の堤防にある歌碑

『万葉集』に詠まれた二首

まくらがの こがのわたりの からかじの
おとたかしもな ねなへこゆゑに

あはずして ゆかばおしけむ まくらがの
こがこぐふねに きみもあはぬかも

東国一円の重要拠点だった古河
河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。足利氏とのつながりも深く、中世東国社会の政治文化において重要な位置を占めてきた古河公方の拠点として知られています。

古河公方と称した足利成氏
古河公方の起こりは、1338年京都に幕府を開いた将軍足利尊氏が関東地方を治めるために子の基氏を鎌倉府の長官である鎌倉公方として派遣しましたが、その後、鎌倉公方4代持氏が京都の将軍家と対立、1439年6代将軍義教と一戦を交え、その結果、鎌倉公方は破れ、持氏は自害させられました。その後、生き残った持氏の子成氏が許されて鎌倉公方に就任しましたが、再び幕府に反旗を翻し、1445年鎌倉から古河の地に座を移したことによります。
 爾来120年余りにわたって古河公方と称し、東国一円の重要な位置を占めてきました。
現在も公方ゆかりの寺院や史跡が残っており、特に古河公方足利氏の古河城の別館であった「公方館跡」や古河公方開基の「徳源院跡」一帯は、「古河総合公園」として、自然や史跡探訪の地となっており、市民に親しまれています。

日光奥州街道の要地だった古河
鎌倉時代から120年余にわたる古河公方時代を経て、江戸時代には徳川譜代大名の城下町であった古河は、日光奥州街道の要地として、代々小笠原・松平・奥平・永井・土井・堀田・本多などといった、老中格の大名が城主となり、栄えた町でもあります。
 今もなお、公方ゆかりの寺社や江戸時代からの貴重な文化財などが市内のあちこちにあり、往時を偲ばせています。

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徳川三百年の智臣 土井利勝
家康が江戸幕府を開き、天下の政治をとるようになると、古河は奥州街道筋と水路の要地となり、北の守りとして重要な位置を占めるようになりました。そのため、古河藩主には有力な譜代大名が配置されました。幕末までに11家12回の交替がありましたが、皆徳川家と深い関係のある譜代大名で、幕府の官僚に列し、大老や老中、大阪城代などの重職に就任したものが大勢います。中でも土井家は、2期12代わたり、古河城主として城下の発展に寄与し、古河の繁栄の基を築きました。
特に、利勝は、・土井の殿様、一六萬石よ・と甚句にも歌われている程、歴代城主の
中でも最高の禄高で、三階櫓などを築いて古河城を最大に拡張し、幕閣最高の大老職まで勤め、徳川三百年の確固たる基礎を築いた智臣として、歴史上の有名な人物でもあります。
市内の正定寺は、利勝開基によるもので、今は土井家の廟所になっています。

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雪の殿様 土井利位
 土井利位は20年にわたり観察した雪の結晶を「雪華」と名付け、天保3年(1832)その成果86種を収録する『雪華図説』を刊行しました。同11年に刊行される『続雪華図説』と合わせ、利位によって著された日本最初の雪の自然科学書として高い評価を得ています。
 寛政元年(1789)5月、土井利徳の四男として、刈谷(現愛知県刈谷市)に誕生しました。
刈谷の土井家は、始祖利勝の次男利長にはじまる分家で、刈谷時代の利位を知る手がかりは、「部屋住」の身ゆえか、ほとんど伝わっていません。
 嫡子でなかった利位に大きな転機が訪れたのは、彼の25歳のときでした。本家にあたる古河藩主土井利厚の養子に迎えられ、このときはじめて、学問・芸術にたいする彼の資質を開花させる機会がおとずれたといえるでしょう。
 文政5年(1822)、34歳のとき、利位は、養父の死去にともない家督、古河藩8万石を襲封。以後、彼は、天保5年(1834)から同8年まで「大坂城代」を、同年「京都所司代」、翌年には「江戸城西之丸老中」と、幕府の要職を歴任しています。
 天保10年(1939)本丸老中に昇進、水野忠邦を助けて天保改革に尽力。同14年、改革の失敗から失脚した水野忠邦のあとをうけて老中首座となり、幕府財政の再建につとめました。翌年、老中を辞任した利位は、藩領を巡村、古河藩政改革をおこないました。嘉永元年(1848)、60歳で病没。

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国宝『鷹見泉石像』

蘭学者 鷹見泉石
 鷹見泉石は家老として、藩主土井利位(としつら)に仕えた古河藩士。利位が大阪城代であった折りに「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたるなど、大きな働きをしました。また、優れた蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集にあたりました。
十郎左衛門忠常といい、泉石は引退後の名前です。
天明5年(1785)6月29日、土井氏代々の家臣、鷹見忠徳の長男として、当時、四軒町といったこの地に生まれました。
11歳より藩主土井利厚・利位の二代に仕え、ついには江戸家老に進み敏腕をふるいました。
とりわけ藩主利位の「大塩の乱」鎮定・京都所司代から老中への昇進と幕政参画など、その陰にはつねに泉石の補佐が与って大きかったのです。
 蘭学らんがくを志し、利位の『雪華図説せっかずせつ』の刊行をたすけ、晩年、自らも日本初の『新訳和蘭国全図』を出版しました。かたわら、学者・文化人と広く交わり、オランダ商館長よりヤン・ヘンドリック・ダップルの蘭名を贈られ、開明的外国通といえます。
安政5年(1858)7月16日、古河長谷の屋敷で73歳で没しました。
市内横山町の正麟寺(しょうりんじ)に眠る。

 渡辺崋山(かざん)筆の国宝『鷹見泉石像』は、よくその姿を伝えています。渡辺崋山は愛知県の小藩であった田原藩の藩士、蘭学に熱心で、泉石とは兄弟弟子でした。その崋山が画家として残した肖像画の一つが、「鷹見泉石像」です。今では崋山の代表作として、国宝に指定され、東京国立博物館に展示されています。

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